古代隋の時代に中国より持ち帰った漢方薬「烏梅(うばい)」が日本の梅干の始まりと言われています。
戦国時代小田原に居城を構え関東一円に勢力を広げた北条早雲は、梅干の薬効と腐敗を防ぐ作用に注目し、戦時食として梅干を重用し、城下及び周辺に梅の木を植え梅干しづくりを奨励しました。戦場においては、梅干を紫蘇で巻いて土や泥が付着するのを防ぎました。これが紫蘇巻き梅干の始まりです。
江戸時代に入ると、東海道の宿場として箱根越えをする旅人たちが小田原梅干を携帯するようになり、江戸後期には小田原宿の名物として全国的に知られるようになりました。
明治、大正時代になると日本中に輸送手段として鉄道が敷かれるようになり、小田原梅干はますます日本の隅々にまで送られるようになりました。また伊豆や箱根を訪れる観光客のお土産としても喜ばれるようになりました。
明治、大正時代になると日本中に輸送手段として鉄道が敷かれるようになり、小田原梅干はますます日本の隅々にまで送られるようになりました。また伊豆や箱根を訪れる観光客のお土産としても喜ばれるようになりました。
そして近年には、食と健康が注目されるようになり、梅干の持っている健康への大きな力が様々な形で紹介され、小田原梅干は健康生活サポート食品として日本中の食卓に欠かせない味になりました。
相模の温暖な気候に育まれた小田原の梅は、肉厚で、表皮が薄く、梅干にした際に柔らかな種離れの良い梅干に仕上がります。塩蔵の梅干には欠かせない塩が海に面した小田原には豊富にあり、その事が江戸期としては大量の生産を可能にし、それに伴い梅干づくりの技術も育まれ、現代に伝承されています。年間生産量は480tに及び、品質の良さでは全国一級品のブランドです。
現在小田原市内に梅干づくりを営む企業は、約25社に及び、小田原の代表的な地場産業の一つとなっています。
現在小田原市内に梅干づくりを営む企業は、約25社に及び、小田原の代表的な地場産業の一つとなっています。
梅の実の収穫作業
三年漬 小田原梅干